武道館で東京電力の『世界劇 眠り王』を観てきた。歌舞伎・オペラ・合唱団・群舞・演技・・・による"総合舞台芸術"とは??
ストーリーは竹取物語をベースにアレンジを施したもの。「世界劇」とは、ドイツの作曲家カルル・オルフが提唱した言葉で「言葉と音楽と人間の肉体の動き、この3つが一体となって世界そのものを表現しようとする試み」(なかにし礼)だそうだ。
今回の観劇の目的は単純で以下2点:
①先月末の團十郎丈によるオペラ演出と比較してみたい
②新之助丈の(第11代)海老蔵襲名前、最後の劇を観たい
夫は「オペラを浄瑠璃にした歌舞伎」と称していたが、歌舞伎をベースにこういう劇を同列には語れないと思う。「どうして歌舞伎役者が演じているの?」という疑問もある。無論、"音楽と舞踊との融合"とか"日本の伝統文化"といったキーワードを重ねていくと"歌舞伎"に行き着くのかもしれないが、演技者が歌舞伎出身である必要は必ずしもないのではないか?
(ソロのオペラ歌手の皆さん。オーケストラの一番後方、舞台寄りのところに一列になって座っている。唄うときは、自分の声を拾うイヤホンをつけて立ち上がって唄う。)
今回の雑多な感想:
■ 様々なもの(歌舞伎・オペラ・合唱団・舞踏)の"融合"ではなく、"坩堝"
異質のものが融合した舞台というよりは、実験的な坩堝だと思った(15年もやり続けているとは思えない)。様々なものが一つの舞台に混在しているという感じを受けた。つまり、違和感のある場面もあれば、総合的に見せる場面もあり、よかった、悪かったという2者択一の感想にはならない・・・というのが正直な感想。
■ 意外にも「竹取物語」では見得を切る場面あり
今日は双眼鏡を持っていったおかげで、手本のような新之助丈の見得を堪能:‐)
■ 新之助丈は"武蔵"より平安朝の貴族姿の方がしっくり
私は新之助丈の口跡のよさが好きだ。成田屋というと基本的には"荒事"になるだろうが、歌舞伎以外の舞台で観る場合は、武蔵みたいな荒々しい武芸者姿よりも光源氏や今回の大伴の大納言のような平安朝の貴族姿の方が似合っている。
■ 勘太郎丈よりソプラノ鈴木慶江さんの方が美しい:‐p
玉三郎丈や菊之助丈、七之助丈、・・・あたりが美しい姫君を演じると、平均的な女性よりも女性らしくて美しい。勘太郎丈の場合、立ち役もこなす容姿からか、やや美的にはソプラノ歌手の方に見劣りする感あり。
■ 武道館で宙乗りをやった勘太郎丈は気持ちよかっただろう(かなりの高さなので恐かったかも)
私にとっては意外だったのだが、ぶっ返りや宙乗りなど歌舞伎特有の演出が使われていた。殊にかぐや姫(勘太郎丈)が月に戻っていくというシーンで相当な高さまで吊り上げられた勘太郎丈は気持ちよかっただろうか?はたまた恐かっただろうか?
■ 紅白歌合戦の小林幸子を思い起こす團十郎丈の衣装
月の大王役を演じる團十郎丈。獅子頭を黄金色に染めた鬘に大きな月型の袖を広げる姿はまるで年末恒例の紅白歌合戦さながらだった(笑)
■ 市川紅梅氏(所作指導)は12代目團十郎の妹で先日のオペラでも所作指導をやっていた
■ 日本のオペラ歌手の実力
私は男性の歌手についてはわからないが、自分が声楽を目指そうかと迷った時期もあったので同性の歌手については恐らく厳しい意見を持っていると思う。今日はかぐや姫にソプラノ鈴木慶江さん、竹取の女房にソプラノ腰越満美さん、の2名が出演されていた。腰越さんは先日のオペラ鳴神で雲の絶間姫役の時に拝聴したので2度目。声質から言うと鈴木さんの声の方が私の好みだ。略歴を拝見するとお2人とも海外のコンクールで賞を取っているようだが、どうしても日本のオペラ歌手と海外のトップクラスのオペラ歌手を比較した時に、表現力と声質、音量(今回の場合はマイクを通していたので調製されていたとは思うが)に聴き劣りする感が否めない。体のせいなのか、声帯のせいなのか、・・・理由はわからないし個人的好みのせいが大きいのかもしれない。
関係ないが、昔のボス(ドイツ人)の奥様がソプラノ歌手で海外の公演を主体に活動されている方なのだが、日本ではほとんどオファーがあっても受けたくないとおっしゃったのを思い出した。
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観劇とは別の感想として、東京電力の打ち出したかったであろうメッセージに疑問を感じた。
『世界劇 眠り王』では"まごころ"という言葉が繰り返されていた。まごころが失われ、金や権力で解決するという風潮に警鐘を鳴らしている。また、まごころにはまごころで返す、よいもの(劇中では不老不死をもたらす龍の持つ玉)があれば、自分だけのものにするのではなく皆で分かち合うのがよい、など非常に模範的な意見が織り込まれていた。
→ これまでの不祥事を鑑みると、偽善的なメッセージに思えるのは私だけだろうか?
会場では目立たなかったが、東京電力は"グリーン電力基金"という自然エネルギー(太陽光や風力発電)普及のための応援基金へのチャリティを行っていた。
→ 自然エネルギーを普及させたいのであれば、企業としてもっと影響力を行使できるはずなのにやっていない。綺麗事でチャリティをやっても人はついてこない。
東京電力という地域公益事業法人にも関わらず日本を代表する影響力を持つ企業が一般人を対象に何かをやる場合、"あぁ面白かった"とか"楽しかった"ではなく、そのイベントを通じて何をやりたかったのか、どんなメッセージを伝えたかったのかを効果的に打ち出す必要がある。今の形態で世界劇をやり続けても、毎年恒例の紅白歌合戦や、民放の24時間TVみたいな惰性で続けているようにしか見えない。
企業に社会的義務が問われている今だからこそ、こうしたイベントの意義、そのメッセージ性と方向、・・・こうしたことを企画の段階でもっと練るべきだろう。問題意識が希薄だからこそ、私のような一観客には観劇体験しか残らないのではないだろうか?
Posted by noriko at February 28, 2004 05:59 PM | トラックバック




