出生前診断というと胎児の染色体異常の確率を調べる母体血清マーカー検査(トリプルマーカー検査)や羊水穿刺がよく知られていますが、それ以外にも超音波検査で内臓異常などを知ることができます。昔TVで、米国における胎児診療の技術の進歩によってかなりの数の胎児が母体内での手術によって治癒されている、という内容の番組がありました。当時は何故高度医療といわれる日本に普及しないのか?と疑問に思っていましたが、日本にも胎児手術は存在するわけで、医大付属病院や世田谷区の国立成育医療センターなど専門外科を擁する病院もあります。
ただ胎児手術を実際に行うかどうか、というと「妊娠中の胎児への手術による流産や早産の危険の増加をしのぐメリットがあるのか?」という点の判断に委ねられるわけで、胎児に深刻な異常が発見された場合でも「手術が最善」という結論が出ない限り経過観察という選択肢がとられます。
共同通信社が報じた国立成育医療センターの例を見ても、早期発見と情報提供が重要であるものの「治療の可能性などについて妊婦に情報が伝えられなければ、思い詰めて人工妊娠中絶を選んでしまうことも考えられる」とあります。この胎児手術はまだ確立された医療ではなく、大切なのは「妊婦さんや産婦人科医に、胎児手術という道もあることを知ってほしい。発展途上の手法なので、態勢が整ったセンターで集中的に実施し、結果を公表して評価を受けるというやり方で日本にも根付かせたい」(成育医療センター特殊診療部長の千葉敏雄さん)ということだと思います。
医師に全てを委ねる時代からインフォームド・コンセント、そして緩和ケアにはじまる患者が病院や医療行為を選ぶことができる時代へと変遷してきたものの、日本ではまだ医者に対して臆する患者が多いと聞きます。ふと胎児医療について調べているうちに、医療と言うサービスを利用する側ももっと勉強していく必要があるという原則論を改めて感じました。
“のぶさん”という方のホームページを見つけたのでこちらにリンクさせていただきます。出生前診断を巡る妊婦さんと医師の認識の違いなどがとてもわかりやすく記載されています。のぶさんも“情報”の扱いについて課題を投げかけていらっしゃいます。
<追記>
この問題はとても重く、調べれば調べるほど自分の価値観を問われます。様々な観点から出生前診断というものを調べてみました。現時点で私自身は、出生前診断に対して否定的な考えではありません。重度の筋ジストロフィーの子供を育てるために人生の大半を献身的に捧げ子供が先立つのを見送った方が近所にいらっしゃって、子供の頃からその生活をみてきた体験から「自分も障害のある子供を産んだりまたは子供に障害がある場合、あれだけ全てを捧げることができるのだろうか?」と常に自問自答してきました。子供がそんなことを考えるのはおかしなことかもしれませんが、新興住宅地の中には何人かそいう障害をもった子供の家庭があり、残念ながら私の記憶の中にはその方たちの幸せな顔は残っていません。
昨年の2月1日の朝日新聞で、住友化学工業がダウン症やアルツハイマー病の症状改善につながる働きがある遺伝子「NXF」を発見し治療薬の開発を目指していると報じられました。遺伝子治療が進んでいる…と耳にしても治療の現場にその技術が持ち込まれるまでにどれだけの月日を要するのか、はたまた現実的なことなのか全くわかりません。 そして現実のものとなっても一体その費用はどれくらいかかるのでしょうか?出生前検査で医師から「胎児は先天的異常である確率が高い」といわれて泣く泣く中絶を選択する方が後を絶たないのが、今の現実です。
まだ子供のいない私には自分がそうした場合にどう選択するのかすらわからない状態ですが、妊娠という周囲からお祝いされるセレモニーの中で厳しい現実に晒され究極の選択を迫られる人がいて、検査で問題がないとしても自分の子供もいつどこでそうなるかなんてわからないのだ…ということを少しでも感じることができれば、障害=異常/劣っている、という偏見は後退するのではないでしょうか?
<追記2. 2005年3月23日>
臨床心理士の方のHPの中で玉井真理子さんの「受精卵は人か否か」を拝見するとうまく言葉に出せないのですが、とても感じる言葉がありました。以下、抜粋させていただきました。
2,障害をもつ子どもの親になるということ 「障害児の親」は、最初から「障害児の親」としてそこにいるわけではありません。ある時点を境にして、「障害児の親」になっていくのです。それは、「ある日突然」だったり、「じわじわ」とだったりします。いずれにしても、それは多くの親にとって「思いがけない」できごとです。戸惑い、うろたえる場合がほとんどです。 障害を持った子どもの出生は、親にとっては、「先が見えない不安」というよりも、むしろ「普通の暮らしが奪われるという恐怖」に近いものです。自分たちには「ごく普通の幸せ」すら与えらないのか、と嘆きます。「どうして」という想いと「どうしよう」という想いが渦巻いていた、と言ってたお母さんもいました。 ダウン症の出生率は1,000人にひとりであると、医師は言います。あなたがたは決して一人ではないのですよと、やさしく語りかけてくれます。しかし、なぜ、よりにもよってこのわたしたちのところに、その1,000分の1がやってこなければならなかったのか? その問いには、誰も答えてはくれません。 親たちは、嘆きながら考えます。「障害児の親」としての新しいアイデンティティを求めてさまよいます。「どうして」「どうしよう」と、繰言のようにつぶやきながら、考える力を取り戻していきます。嘆きや悲しみや怒りや悔しさを、自分にしか語れない言葉にして紡いでいくことをしはじめます。 そして、障害を持っていることそのものが不幸なのではなく、障害を持っていることは不幸だとしか思ってもらえないことこそが不幸なのだと、気づいていきます。子どもをもつということ、つまり、子どもをわが子として引き受けるということは、病気や障害を持った子どもが一定程度生まれてくるという事実を引き受けるということなのだと、理解していきます。 それは、「障害児の親」であることを選びなおす道のりです。自分たちが思い描いていた「普通の暮らし」「ごく普通の生活」とはいったいなんだったのだろうと、懐かしくさえなる瞬間があります。 「障害児の親」であることを選びなおす道のりに付き合い、気持ちの揺れに寄りそう仕事―これも、遺伝子診療部のカウンセラーとしての大事な仕事です。 2003.12.03 玉井真理子





