asariさんのところで見つけて、私も行ってきました。福助丈と松岡和子さんのプレトーク。福助丈が中味の濃い話をされたので詳しく残したいところですが、夫がやるといってますから私は印象に残ったことだけ備忘録として書いておきます。
1. 歌舞伎をより身近な存在に
勘三郎丈もそうですが、恐らくコクーン歌舞伎、平成中村座に参加している役者さんは皆、この気持ちが強いのでしょうね。福助丈は若い頃、猿之助丈と組んで色々な演目をやったとおっしゃっていたので、猿之助丈からもその精神を受け継いだのかもしれません。
「題名のない音楽会」にしても、歌舞伎を知らない人に少しでも親近感を持ってもらえるきっかけになったら、という気持ちから出演したとおっしゃっていました。でもご自身も楽しまれていたようで、本放送が楽しみです。
義太夫を文字に起こすことの重要性も語っておられました。床本も文字で追うと何を言っているか頭に入ってくるわけで、原作をより多くの方に見てもらうことから文化村の担当者に床本の販売を提案されていました。実現しますかね?!
2. 型から型の間は自由
歌舞伎ではよく“型”について語られます。先日「芝翫芸模様」を読んでいたおかげで、ある程度の知識は入っていましたからとてもわかりやすかったですね。現在の歌舞伎の型は大別して9代目團十郎と5代目菊五郎に分けられ、前者は荒事らしく精神的なものを重んじ、後者は緻密に練って考え抜かれたポーズのパズルのごとくどの手はどの角度でどこに置く、という決まりごとがきっちりと決められています。今は両者の型が明確に分けられているのではなくかなり混ざってきているのですが、型について語るときの主な注意点:
a. 写真やビデオなど残るものを盲目的に信用しないこと
後見が忘れてしまったために小道具なしで踊ったり、怪我をしたために肩を露出するのを左右変えたり、・・・こうしたことは実際の舞台で起こるわけで、その一瞬を捉えた写真やビデオを見て「型はこうだ」と決め付けるのは危険です。芝翫丈がこの点については著書の中で何回か触れていましたね。福助丈も実際に舞台の袖で故梅光丈の舞台を観ていて、後見が小道具を忘れてしまった場面に遭遇したそうです。
b. 型から型へ移るまでの間は自由
脈々と続く歴史の中で型は創造され引き継がれていくのですが、それも時代とともに変遷を経ており、「ある型はこうである」と頭ごなしに考えたところで様々な変遷を経て別の型が継承されていくことも多々あるわけです。
3. 人が考えられることは似ている
シェークスピアも近松もよく似たモチーフを元に戯曲・本を書いており比較されることが多いが、人間考えることは同じようなものだ、ということ。「桜姫東文章」の話からフランク・ヴェーデキントの「ルル(Lulu)」について語っておられましたが、ここはかなり松岡先生の得意分野とのこじつけっぽく見えてしまったのですが(苦笑)。
デカダンでもないのにFemme Fatale?とも思ったのですが、調べてみると4世鶴屋南北(1755-1829)は世紀末にかけて活躍した人なんですね。桜姫=Femme Fatale…確かに清玄阿闍梨は破戒していきます。でも清玄は稚児白菊丸と衆道の恋に落ちて心中を図り自分だけが死にそびれますが、桜姫をかばって破戒する顛末は「因果応報」と言えるわけです。桜姫自身は高貴性や処女性と女郎に身をやつしてからの卑俗性や娼婦性というアンビバレントな二面性を持ちますが、私の描くFemme Fatale像とはやや違っていました。
4. 演出の違い-串田演出と野田演出
野田さんは全てを計算しつくしてきっちり演出するタイプ。串田さんはその時の流れや雰囲気をもとに演出を組み替えていくタイプ、だそうです。無論、古典については演出を施す遊びとも言える部分がほとんどなく、ほぼ原作通りになることもあるようですが。
コクーン歌舞伎の「盟三五大切」(私は観ていません)では勘三郎丈と橋之助丈が源五兵衛と三五郎をダブルキャストで演じたそうですが、2人とも自分の役作りについては全く言わずにいたそうです。でも勘三郎丈は橋之助丈の演技を舞台袖で観ていて「もらった」と翌日から取り入れたことがあるそうな(笑)こういうことがあるから観る日によって舞台は変わる、生き物なんですよね。
備忘録と言いつつ、キレイにまとめられていらっしゃいますね!助かります(^^)。
pshigeさんの記事も楽しみにしていますね。
Posted by: asari at May 18, 2005 11:00 PMasariさん、こんにちは。
>pshigeさんの記事も楽しみにしていますね。
間接的、直接的にプッシュ中です(苦笑)。いつになることやら…。
Posted by: のりこ at May 19, 2005 02:20 PM




