先日の赤川学先生の本にパラサイト・シングルの引用があり、大変遅ればせながらパラサイト・シングルの名づけ親が山田昌弘先生だったと知り(というか、記憶になかった)、パラサイト・シングルのその後を書かれたという『パラサイト社会のゆくえ』を読みました。
先日、丁度厚生省が後期高齢者医療制度における療養病床削減を断念した、とのニュースが流れましたが、その理由として、療養のために住み慣れた場所を移ってまで受け入れ病院を探す人がいることに加え、病院から自宅療養に切り替えることで介護が家族に重い負担となり悲鳴をあげていること、というのが挙げられていました。ここ数年、一つの社会現象のように介護疲れや先行き不安から親を手にかけるという悲惨な事件が数多く報じられています。言葉足らずですが財政削減が殺人や自殺のトリガーとなる社会は終わっています。
本書は(データに基いて)現在日本の家庭で起こっている現象(問題)を挙げていますが、“パラサイト・シングルの不良債権化”については多少の違いはあるものの、まさに自分の周りに複数の事例があって思わず頷いてしまいました。
「私が『パラサイト・シングルの時代』で指摘したように、一生結婚しないことを前提に親との同居生活を選択肢、将来の生活設計をして行動している未婚者は問題ない。「いつか結婚できるはず」、「結婚すれば問題が解決する」と考え、準備をしないまま未婚中年になってしまう状況を問題視したいのだ。この状況は、いつか土地や株が上がれば問題は解決すると考え改革を先送りにし、不良債権を抱えて経営危機に陥る企業にそっくりだというのが、私が「パラサイト・シングルの不良債権化」という言葉で表したい状況なのである。・・・特に、結婚を前提にキャリアを積んでこなかったフリーター女性は、経済的困難に陥る。嫁が来ることを前提にしてきた男性は、家事や介護負担に直面して慌てるケースが今後増えるであろう。」(同書18~21ページより一部抜粋)
では自分はどうだというと、結婚している夫婦も今や、安心していられない世の中。何と日本は3組に1組以上が離婚届を提出する時代だそうです。数字で見ると改めて実感しますが、「いつでも誰にでも起こりうること」である限り、今の自分が子どもの育児・自分の老後に十分な備えがあるか?=夫と2人なら何とかなるかもしれないけれど、1人になると、かなりの軌道修正が必要な上、自分の老後の余裕はないので恐らく足腰立つうちは働き続けるんでしょうね。こんな状態なので親の面倒をみる余裕は全くありません。もし介護が必要になったらどうしよう・・・、と時々考えますが、いつも堂々巡り。共働きで子どもがいなければお金で解決できる部分はそうするでしょうが、これから教育費がかかる子どもを抱えた状態で遠方にいる親の介護もやるとなると・・・すぐ考えられるのは自分の生活、健康が破綻することだけ。正直なところ「考えたくもない」ことながら、この思考は不良債権化したパラサイト・シングルと同じなんですよね。
今はパラサイトではない立場の人も多くが、実際に誰かにパラサイトされたらそれを負担できるかというと余裕はないのが現状ではないでしょうか。年金問題、各種セイフティーネット、などなど、世代間で負担しあっている日本の社会構造が「私は今こうやってやったから、次はあなたの番ね」という具合に、パラサイトのバトンを受け渡し続ける「パラサイト連鎖」の上にあると考えると、自分たちの思考も社会の考え方も理解できるような気がしてなりません。決断しなければならない時期はとっくにきているのに、変革を嫌がるモラトリアムが続いているようでは、少子高齢化に歯止めを!なんて旗揚げしてものれんに腕押し。本当に日本は危ないな。
最近、大学生の頃を懐かしく思いながら社会学系の本を読んでいます。先日帰省時に『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス 1074)』を楽しく読み終え、その後に続いたのが『子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)
』。
前者はどちらかというと、大学の専攻ゼミの教授がデカダンスの研究で有名な方だっただけに、ゼミ生の卒論テーマも多種多様で、そういう意味でいうと守備範囲の広い社会学の中では近さを感じる内容。で、後者はというと、最初は巷にあふれる統計資料を読み解きながらリサーチ・リテラシーを説きつつ、少子化の原因を様々な角度から眺めていこうという内容・・・だと思っていました。でも赤川氏がいいたかったのは、男女ともに育児も仕事もするという「男女共同参画」を推進しても少子化を妨ぐことはできない、というデータ分析(専門家が用いるデータ分析による事実の誤認)とともに、個人の自由と社会平等の点からみて、子どもという私的財産が増えようが減ろうがそれを公的財産に摩り替えて「選択の自由」と「負担の分配」が捻じ曲げられるような社会には住みたくない、ということだと思います。
個人的に興味深く拝読した箇所は第6章の「少子化はなぜとまらないのか」。ここでは山田昌弘氏のパラサイト・シングル論などを例にあげたアプローチと156ページ以降の“「人口容量」という考え方”(以降は人口経済学的考察)の二本立てでの論理展開が行われています。備忘録として簡単にまとめておきます。
「現在の低い経済成長下で独身女性は、ハイパーガミー(女子上昇婚)が実現しがたい状態にある、つまり、生活水準を下げてまで結婚する気がないため、結婚→出産が圧倒的に多い(婚外子が少ない)日本人は、出産するチャンスが減っている。一方、人口学者の古田隆彦氏による「人口容量」という概念に基くと、国民一人当たりの生活水準の上昇が大きく上昇しなければ(一人当たりの生活水準が上がらなければ)、少ない人口しか生きられない。新たな子どもを増やすには、親の世代が自分たちの生活水準を落とさねばならないものの、一度高い生活水準に慣れてしまうと、生活水準を落とすことを嫌がって子どもを増やすことをあきらめる。」
ところで私自身は子どもはみのり一人しか産み、育てられない可能性が高く、厚生労働省の年金制度の試算に用いられる出生率を下回る本人です。両家の父からはみのりを産んだ直後に「もう一人どう?」と言われ、当時の自分の体への負担を考えると辟易しましたが、実際にもう一人どうかなと考えたとき夫は「一人でいいよ」、医者は「こんなに弱い体で無事に子どもを授かっただけでも感謝すべき」。そう、残念ながら私には子どもをたくさん産んで育てる体力がないようです。
若くてたくさん子どものいる人には金銭だけではない手厚い支援が必要だと思う一方、認可保育園に入れるのは企業に正社員として勤めて産休・育児休暇を取った人が優先。つまり、所得が多い方が優先的に入れる上、自己負担が少ないという現実に、「こういうものなのかな?」と思ったりします。かといって、保育園のCapacityを広げても少子化対策になるとは思えないというのが実感です。たとえば働くママ(パパ)には2種類いて、仕事が好きで自分のため、生活を潤すために働く人、そして生活するために働く人。どちらに行政の支援が必要かは明らかだけれど、両者ともに認可保育園に子どもを預けることができたとしても、果たして出産数は増えるでしょうか??
すっごく遅ればせの読書ですが・・・というのも図書館で借りようと思うと数十人待ち。以前なら自分で買ったと思うけれど、如何せん、2歳児を抱えての読書は平日の往復電車の中のみに限定されますので、そんなに急いで借りてもたまると読めないというジレンマありなんですね。でも以外と早く順番が廻ってきたので早速チーム・バチスタの栄光読んでしまいました。本当に読みやすいというか、文章に癖がないのかなぁ?途中でこれって医療事故?と思ったけれど、ミステリーなんだから犯人がいるはず、と思いなおし、「うん、なるほどこう落とすか」という結末でした。しかし久しぶりにすごい勢いで読めてしまうくらい私のツボにははまったな、この作品。恐らく私がそう思うってことは、本格的ミステリーファンには物足りないんでしょう。
アマゾンの書評を読んでいると、この作品がずば抜けていて他の作品は今ひとつみたいですが、早速図書館で予約入れました。というぐらいスカ~ンと楽しかった。映画のサイトを見てキャストをチェックして、池内くんがちょっと意外だったけれど他はなるほどね、とうなづける陣容。TV放送されるまでは時間があるだろうから、早くDVD出ないかな~。
事件が起こったときから関心を寄せていた奈良の東大寺学園の生徒による自宅放火事件。この事件について取り上げ、裁判で争われたことでも有名になった「僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実」を読みながら、そして読み終えて、色々なことを考えています。子供は親、祖父母などの所有分ではないこと、躾という名のもとに大人が子供に暴力をふるうことが正当化されていること、広汎性発達障害に対する認識の難しさ・・・等など。
200人に一人と言われる特定不能の広汎性発達障害については、自分にも当てはまる傾向もあるし、周囲にもそういう人はいるし、その境界線が非常にわかりずらい。だからこそ、普通に生活している人が多く、悩み苦しむんでしょうが・・・。
筆者はこの発達障害を持つ加害者を数名挙げていますが、全てが大きな事件で世間を驚かせ、「何故?」と思ったものばかりでした。
人の抱える闇の深さを思うとやるせない気持ちに陥ります・・・。
「心にナイフをしのばせて」。賛否両論の多い本だと知ってから読んだせいか、被害者家族の心の闇の深さにおののいたか、どっぷりのめりこみすぎることなく一定の距離を置いて読むことができました。
ご存知の方も多いかもしれませんが、神戸であの酒鬼薔薇事件が起こるずっと前、横浜で高校生が同級生を殺傷し、首を切断するという事件があったそうです。この本はその事件の被害者側遺族に焦点を当てたものですが、如何せん被害者家族にとってはまさに青天の霹靂、ショックの大きさによる自己逃避本能から記憶が欠落したり、実際に情報開示がなされていないことなどから筆者による取材によってかなりの箇所が補筆されたのではないかと思われます。
初めてこの事件、この本の存在を知ったときは加害者に対し理不尽な気持ちを抱きました。被害者が未だに苦しんでいるのに加害者は社会的に成功、それにも関わらず賠償など一切なし…。でも実際に本を読んで被害者家族の苦しみを垣間見た後となっては、先に抱いた気持ちに変化がありました。それはこの筆者の書き方の問題なのか、それとも私が天邪鬼なのか…一方的に加害者=一生悪者、という図式だけをつきつけられ、どうしてこの加害者はこういう事件を起こして今に至っているのか全くわからない。無論、加害者本人にすらわからないこともあるでしょうが、それでもわからないことだらけなのです。
本当は被害者家族の負った傷や闇の部分の余りの重さに私自身が「わからない」という逃げ場に逃げ込んでいるのかもしれません。ノンフィクション物って自分が理性的に分析できるようにならないと感想が書けないんですね。
1995年1月の震災後、怒涛のごとく過ぎ去った日々の中やっと実家に帰省してぼんやり朝のニュースを見ていたとき、あたかもドラマと見間違うような非現実的な、そう私を含めてきっとほとんどの日本人にとって理解しがたい事件が伝えられていました。それ以来「霞ヶ関駅」=国内初の大規模テロ、という印象が刷り込まれ、どの路線で霞ヶ関駅を通っても毎回複雑な思いを感じます。どこの交番にも貼ってある、色あせたオウム信者3人の指名手配写真を見ても同じ気持ちに。どうしてか・・・それは恐らく、オウムの事件って何だったんだろう?という疑問が解けないから。
2006年開高健賞を受賞した「さよなら、サイレント・ネイビー―地下鉄に乗った同級生」の著者、伊東乾さんは豊田亨被告と大学の実験でペアを組んだ同級生。この人の本が私の抱く積年の疑問を解く一助になるかも?と思って読んだのがこの本でした。
「サイレント・ネイビー」とは海軍の言葉だそうです。陸軍に比して「沈黙の海軍」として、「軍人としての本務に邁進し、大言壮語を慎む。全力で責任を果たし、失敗しても言い訳をしない。」という大英帝国海軍の精神をもって豊田被告は裁判では「(自分が何かを発言すると)被害者の方が不快だろうから(または不快になるだろうから)」と沈黙を保とうとしているが、そうではなく真実を明らかにすることで「失敗学」のデータを残す、これこそが必要なことだ…というのが著者の伝えようとしているところです。
私自身は残虐な事件を起こした人間は死をもって償う他はない、という考えや死刑廃止論についてとやかく語ることは出来ません。ただあの事件はまだ日本人の中で、この国のシステムの中で解決していないと強く感じました。裁判の行方はわからないものの、原因究明、失敗防止、知識配布という試みをしなければ「臭いものにふた」ではまた新たな震撼とする事件が起こりかねないという恐れを抱きました。
著者は最後の豊田被告への手紙で百折不撓(ひゃくせつふとう)という言葉について、そして著者の亡くなられたお母様について書いています。プチ鬱も含めた鬱病が一般的となった今の時代、「肩の力を抜いて楽に生きよう」、「無理をする必要はない」、「あなたのペースでやればよい」といった言葉がキャンペーンのごとく乱舞しています。百折不撓なんてアタックNo.1の世界のように戦前から昭和時代の遺物かもしれない・・・でも不撓=撓まない(たわまない)とは、芯が強いだけではなく、実は柔軟なことではないでしょうか?強い力や障害によって心が曲がったり疲れたり、ひいては屈することは皆経験済みのこと。真実を知る被告たちそして現在も教団に残る人たち、彼らに真の意味で百折不撓となって欲しい。世間の力ではなく自らの心、すなわちマインドコントロールによって一時的に撓んだところを認め、そして再び自分たちを取り戻して欲しい。それによってきっと私たちのあの事件に対する「すっきりしない気持ち」が少しでも救われるのだから。
綿矢りさ。早大卒業後の今は職業作家となり、待望の&初の長編小説がこの「夢を与える」。「蹴りたい背中
」で第130回芥川龍之介賞を史上最年少の19歳で受賞した少女が次にどのような作品を世に出すのか、多くが期待と不安を抱きつつ待っていたのではないでしょうか。
色々な書評で書かれている通り、当の本人もほぼ書き終えた原稿を破棄するなど試行錯誤を繰り返したようで、最終的にたどり着いたこの作品に対する評価は比較的肯定的なものが多いようです。著者の体験を重ねたものという評もあってどんな内容なのか期待しながらほとんど一気に読んでしまいました。ヨーコさんが「せつない」と書かれていた気持ちもわかるんだけど、私としては「蹴りたい背中」からの延長線上にこの作品があるな、という著者の成長が如実に出た作品という気持ちが前に出てしまいます。敢えて言葉の定義をしておくと、「成長」であって「一皮むけた」とか「飛躍」じゃない…。母親と娘の男に対する執着についての描写や小説の長さを考えると、確かに成長したことを読み手に感じさせる作品です。多摩という同級生についての後半の描写は「蹴りたい背中」の延長線上にあるノスタルジックな感情であり、筆者が前作品を踏まえて新作を発表したという成長が感じられます。主人公「ゆうちゃん」の成長をCMを通して楽しむ視聴者と同じように、綿矢りさという文壇でアイドル視される作家の成長を楽しむ読み手がいる、と言う点で奇妙な一体感すら感じます。ただ、その成長振りにどこまで読み手がついていけるのか…これは今後の作家生命に関わる重要かつ不可避な課題でしょう。独特の世界観も10代の女の子なら受け入れてもらえるだろうけれど、20代、30代…とどのようにこの身を削る職業を続けていけるのか。恐らく次回作がそれを決めるんでしょうね。
一つだけ気になった点。初版を買ったせいでしょうか、誤植がありました。「肉体の関係」とすべきところ「肉の関係」に。これは出版社の責任ですね。
手嶋龍一という人は国営放送局に在籍していた頃、女子高生たちから「テッシ~」と呼ばれていたそうで、その話を聞いたときに歌舞伎界の重鎮、雀右衛門丈を「ジャッキ~」と呼ぶ彼女たちのセンスの鋭さに敬意すら感じたものでした。テッシ~が国営放送局を辞した後の活躍目覚しいところは周知のことですが、ムネオさんと共に話題に上った佐藤優という日本版ラスプーチンとテッシ~の対話を見城社長率いる幻冬社が新書として出版…好奇心がかきたてられて時間をつなぎつなぎ読みました。
「インテリジェンス 武器なき戦争」、相当の曲者たる両氏、素人受けする内容を適度に盛り込んで読ませてしまう内容です。
本の中身は読む人の楽しみにとっておくとして、佐藤氏がイスラエル贔屓というくだりで思い出したのが、以前、為替のスタートレーダーだった方から教えてもらったイスラエル筋のHPのこと。普段は結構、おどろおどろしい情報がきな臭く載っているんですけれど、時々角度が変わった情報があって超一流のトレーダーたちはそれを見て感じるところもあるそうです。夥しい数の情報の中で瞬時に判断を求められる人たちの嗅覚にひっかかるだけあるというのは記憶に新しく、イスラエルのインテリジェンス話が妙に真実味を帯びてせまってきました。
この本の最後に日本もインテリジェンスを養成するスクールを大学(東大、早大、慶大の名前が挙がってましたが)に置いて人材育成に力を入れるようにすべきだ、なんて件がありますが、果たしてこの両名の真の思惑はどこにあるんでしょうか?言葉の上っ面だけでは読みきれないんじゃないか?という「考えさせられる」態度は少なくとも学べる本ではあります。現実では考えているだけで行動に移す判断力がないと役に立たないから、私にはインテリジェンスの才覚はないということは明白です(苦笑)。
今日ようやく読み終えたのがこの本。2003年11月29日、奥克彦参事官(当時)、井ノ上正盛一三等書記官(同)とジョルジース・スレイマーン・ズラ運転手はイラクのティクリート南方で襲撃され亡くなりました。この本は小泉政権下で首相補佐官としてイラクの戦後復興支援策の策定のために現地で奥参事官とともに奔走した著者(岡本行夫氏)による奥参事官へのオマージュとして書かれたものです。
先日、米ABCだったかな…駐イラク米兵が数名命を落としたと報じていたのは。自衛隊がイラクから撤退した今、本邦メディアは複数の日本人も命を落としたイラクの現状を伝える意欲に欠けているのではないか…そんな気がしてなりません。
日本の外交について色々批判も多いけれど、私たちは現地でこんなに頑張っていた人たちのことを少しでも知ろうとするべきだろうし、亡くなった人たちの遺志を継いで今も裏方として尽力している人がいることを忘れてはならないのではないでしょうか。
相変わらず図書館で本を借りては乱読していますが、如何せんじっくり読むことがなかなかできず時には読むことがかなわずに返却することも。これではいけない、と思い、とにかく速読でもいいから読んで返すように心がけることにしました。で、即効で読んで返したこの本。中味は…というとお勧めするほどの内容ではないのですが、自戒のために備忘録として書いてたことを残しておきます。
要するに「ビジネスパーソンは得手を伸ばす。秀才は不得手なものを伸ばそうと努力して失敗する。日本の企業で下手に手を出して撤退を余儀なくされた分野は沢山ある。」ということ。
別に秀才じゃないんですけど器用貧乏なところがあってこれまで転々と仕事が変わってもそれなりに適応してきたんですね。それなりに、なんで一流にはならないわけです。何でも平たく学んでいく古い型の教育を受けた世代だからか、親から苦手なものを作ってはいけないと躾けられたせいか、未だ宙ぶらりんの状態で人生の半分の折り返し地点まできてしまいましたが、これからは体力・知力が極端に衰えていくという現実を受け止めながら、余り無理のない破綻しない生活を送りたいと思っています。だから自分が不得手なものを深追いしないようにしようっと。
タイトルに惹かれて渋谷区図書館から借りて読みました。3章からなり、佐伯氏と大沢氏の対談形式で進められて行きます。このお二方の人選はどうやら対極の立場にある人を選んだ、というところにあるようですが、その割には考えの明確な相違を見出すというよりも共通点や通ずる点の方に焦点があたりがちなのは、某TV局の「朝まで~」と異なる点です。
日本には真の論客といえる人が少ないのか、はたまた1対1という対談形式が故に穏便にコトを進めようとする“日本人的発想”が出たせいか、或いは??というところですが、その内容構成はさておき、一般受けすると思われる点は“テロ”という行為が社会において外在的でも内在的でもあるということ。死やエロティシズムにも共通するように、人が忌み嫌う対象とはえてして心惹かれる対象でもあり、社会の中、人の精神の中にある“憧れ”を否定しようとすると矛盾、破綻が生じます。実際、9.11以降“テロ”を社会的悪として徹底的に排除しようとする米国、また日本でも実は“テロ”行為は必ずしも万人が全否定するものではない、という事実は様々な例に見て取れます。
読みやすい反面切り口は甘め、という印象の本でした。両氏が現在京都大学で教鞭をとっているというBackgroundに関係するのかどうかはわかりませんが。
先日図書館で借りて読んだ『パラサイト・ミドルの衝撃 サラリーマン、45歳の憂鬱』。この本に対する賛否はさておいて、普遍的なテーマは「何事も人による」のか「環境によって人は変わってしまうのか」ということでしょう。
そういう点からすれば全ての世代が、そしてその道の第一人者と言われる人も実はパラサイトな側面を持っていると思うわけです。どこを切り口にするかでどのカテゴリーの人がパラサイトと称せられるかの違いであり、今や第3号被保険者となった私もパラサイトでしょうし、その道何十年で周囲から持ち上げられている人もパラサイトなのでしょう。
ふと部屋を見渡すと、夫が図書館で借りて放置していたのがこの本。
「??」と思いつつ、新書なのでざっと読んでしまいました。asahi.comかどこかで取り上げられていたらしいんだけど、率直な感想は「うぅ~ん…何が言いたいんだろう…」という感じ。
続きを読む...英文科出身ではないので仕事以外で英語を読むことは余りなく、ペーパーバックも苦手意識がありましたが、図書館で邦訳を入手するには3ヶ月以上待たなければならない…とあって、夫に頼んでペーバーバックを借りてもらいました。仕事をしていないこともあって読み始めるといっきに読んでしまいました。後であべまきさんから邦訳を借りて確認のためにざっと読みましたが、「色素欠乏症」みたいな用語はわからないまでも黄金比率や暗号解読は読めばわかるので、当初の懸念はどことやら。
続きを読む...「阿修羅の瞳」を観に行ったときに予告編が流れていて、とにかく出演者が今の日本の男性俳優の中からベストに近いセレクションをしたかのように豪華だったのが目を引いて、是非映画の前に原作をと思って借りたのがこの本。
続きを読む...不謹慎かもしれませんが仕事柄、とても話題になったこの話。人一人の命が失われたということで、様々なところでも取り上げられていましたが、りそなという銀行が再建中の今、改めて整理するために読んでみました。
続きを読む...何となく手にとってしまったのがこの本。
正直言って、この本はさら~っと読んで写真を見て、ふぅ~ん…という感じで終わっちゃいました。染五郎丈については操り三番叟なんて実に見事だと思うし歌舞伎役者としてもそれ以外の舞台や場所でも頑張ってると思うんですよ…でもどうも優等生的に映ってしまうのは私がヒネテるんでしょうか…。
乱読の対象は何となく歌舞伎役者や狂言師の本に集中してしまいました。お次は「萬斎でござる」。
いわずと知れた狂言師、野村萬斎さんの本です。今日はタイムリーにも(?)和泉元彌さんが能楽協会と理事を相手に東京地裁に訴訟を起こしていた件で地裁から請求を棄却されていました。伝統芸能の世界にありがちですが、家系図を見ていると野村萬斎さんのお祖父さま(六世野村万蔵)と和泉元彌さんのお祖父さま(九世三宅藤九郎)が兄弟ということで、この2人は遠縁にあたるわけです。
続きを読む...まだ本調子ではなく、時折一方向に引っ張られる感覚は残っていますが、そうは言ってもずっと寝てばかりいると途端に体力がなくなってしまうのでうちから徒歩5分のところにある図書館に行って乱読してきました。まずはこの本。
続きを読む...「否定的自己認知」、「対人認知」、「強迫的思考」・・・これらの思考パターンが様々な欲求と結びついたとき、人は悩み、時には心身の不調が呼び起こされるそうです。
続きを読む...『働く人の心療内科―心とからだが疲れているあなたへ 聖路加国際病院健康講座』

この本は心療内科の先生が、ストレスから体に不調をきたす現代人のことをわかりやすく書いた本。心療内科について調べものをしたくて、まず医療の立場からではなく患者の立場に主眼を置いた本を読もうと思って買ってみた。
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